新米

無門関より

新米の僧が趙州に尊い示しを尋ねた。

趙州が新米に朝飯は済んだか尋ねて新米は済んだと答えた。そこで趙州は茶碗を洗っておきなさいと言った。それで新米はいっぺんに悟ったとのこと。

ところが無門は新米は鐘をみて甕と間違ってしまったと言っている。

何が鐘で何が甕なのかわからん。

禅を学んでいる人は理解できるのかな?

自分はチンプンカンプン。

道元語録

南泉と黄檗のやりとりを示した。

南泉が黄檗にどこに行くのか尋ねて野菜を取りに行くと答えた。

さらに何で取るのかと尋ねると黄檗は小刀を示した。

すると南泉は黄檗にものの主人にはなれないと言った。

そこで道元は南泉に代わって黄檗に答えることを示した。わたしの倉にそのような刀はないと。

仏法の世界は当たり前のことであり変わった道具は必要がないということを示したかったみたいだ。

木登り

香厳和尚が「人が樹に登り枝を口でくわえ両手両足を枝からはなし、そこにひとが禅とはいったい何なのかと問いかけられた。答えないわけにもいかず答えれば落下する。どのように対処すべか。」と問われた。

話すことができなければ体は自由がきくから体で答えればいいということなのか?

すぐに答える必要がないとすれば木から降りてからでも答えればいいということか?

今すぐ行動

道元禅師に病弱な人が仏道に耐えらないし力量もないので病気の養生をしながら一生を終えると言った。

悟りを開いた開祖は筋金入りの健康な体ではなかった。

優れた素質があったわけでもない。

しかし自分を卑下して道心をおこさなかったり力がないから仏道を学ばなかったりはしなかった。

道元禅師は病弱だとか素質だとかなど考えず発心して修行することが仏道を学ぶ上で重要ことと言っている。

御託を並べず何かしようと思ったらすぐ行動をこころがけるようにしたい。

道元禅師

正法眼蔵随聞記にて

人の批判を気にするなら道理のわかった人の批判を気にするべきだと言っている。

そもそも自分が道理のわかる人かどうかを判断できる力量が必要だ。

そして道元禅師も思慮深く行動していること記載している。

達磨

達磨は禅宗の開祖です。

詳しいことはわかっていません。

伝灯録や碧岩録に南インドから海路で中国の南海広州にきたこと。

梁の武帝にあった。

嵩山少林寺に一人で座禅をしていたという断片的なことはわかっています。

指たて…無門関

俱てい和尚は問答をされると決まって指を一本立てていた。俱てい和尚のところに童子がいて、他から来た人が童子にここの和尚は何の法要を説いているの尋ねた。

童子はそこで指を一本立てた。

それを聞いた俱てい和尚は童子の刃で指を切ってしまった。童子は痛みに耐え兼ねて逃げた。俱てい和尚は童子を呼び止め指を一本立てた。それで童子は悟った。

俱てい和尚は天竜和尚の一本指によって開悟したらしいが意図がつかめない。

心情としては俱てい和尚は野蛮だな。

禅のこと-臨済録

師は修行をする者は正しい見解「けんげ」を身に着けようと言っている。

見解とは普通「けんかい」と読むので、あることに対して考え方や価値判断という意味になる。